人生をかけたさかさ一代記 須藤佑実『夢の端々 上・下』

※ネタバレ有、お気を付けください。

 

私の大好きな新井素子の作品に『チグリスとユーフラテス』というものがある。「逆さ年代記」という、過去から現在、現在から未来へと時間の流れの通りに、ではなく現在から過去へという流れで物語を語っていく方法が『チグリスとユーフラテス』では取られている。

文学研究で用いられるプロット(物語をどのような順番で語るか)とストーリー(物語を時系列順に並べたもの)という用語を用いて説明すると、まさにストーリーとプロットを逆向きにし、未来、現在、過去の順にストーリーを並べ替えたものをプロットとする、というのがこの形式である。

これと同様の手法が用いられているのがこの『夢の端々』だ。

 

 

 

 

 

 

この作品は、主人公のミツと貴代子の物語が2018年から過去へとどんどんさかのぼる形で描かれる。主人公の1人の貴代子は、ひ孫と遊ぶ中、かつて女学校時代、心中を図った恋人同士であったミツの訪問を受けるところから物語は始まる。

この作品でとられたこの形式には、もっと真実を知りたい、先を知りたいという感情を誘発させる作用だけでなく、我々の感情を増幅させる作用がある。

たとえば、前半部分で貴代子は結婚し、子供、孫、ひ孫まで得たことが語られる。このことを知ったうえで、過去に彼女は進歩的な考えを持ち自立した女性であろうとしたことが語られる。なんと悲しいことか、過去に夢見た自立した女性になろうとしたが、彼女は能力不足によってそこへはたどり着けなかった。そうはなれないことを知ったうえで若き夢を語る少女を見ることのなんと悲しいことか。そんな彼女が、ミツに語った夢がミツを変えていくのである。他者への変革を促したのに、本人は変革を自らのものとは出来えない。しかしながら、貴代子が「自立した女性」になれなかったのは彼女の能力不足故とは書いたものの、それは彼女の努力不足故だけではなく、社会の問題であったことも確かだろう。彼女は

「私、仕事ができないんです。

だれにでもできる

簡単なことをいまだに

失敗してしまうんです。

数のかぞえ間違いとか

人の間違えとか…。

周りの人もまたかと

あきれてます。

私もどんどん自分に

自身がなくなってきました。

学生時代はこんなこと

なかったのに 社会に出て

初めて自分の欠陥に

気づいたのです。」と綴るが、そんな働く男性いくらでもいただろうし、きっと別の方法で働く場所はあっただろう。そう知っている、現代でも同じ目に合う我々は知っている中で、この苦しみは語られるのである、

しかし、悲しさだけではない感情もこの形式は増幅させる。二人が心中に失敗し帰る道の中、二人は話す。

(ミツ)「せめて私かみっちゃんが男だったらまだ…」

(貴代子、以下同じく)「そんなことない」

「私達女同士だから出会えたの」

「きよちゃんが女だから好きになったの」

「きよちゃんだから命を懸けてもいいって思えた」

「次は一生を懸けるわ」

ここで、まさに貴代子との愛に一生を懸けてきたミツのこれまでの生涯が、この形式によって知らされてきたミツの思い、意思が思い出されるのである。一生を懸けた愛への我々の思いもますます増幅されるのだ。この感情・思いに名をつけることは難しいので、今後の課題とでもしておきたい。

 

また、この作品を語るうえで欠かせないのが、百合作品(女性同士の強い感情や恋愛を描いた作品)において珍しいことに、百合の生涯を描いた点である。百合は一過性のものであり、学生時代で終わるものだという風潮もだいぶ薄くなってきており、最近では高校を卒業してからの大学生(または社会人)のカップルを描いた作品も増えている。描かれる年代も女学生だけではなく働く女性など、だんだんと広くなっている。しかし一方でこのような百合カップルの生涯を描いた作品は本当に珍しいのではないだろうか。正直私は見たことがなかったので、このような作品に出会えてよかったと思う。そして、そのような障害を描く土壌がないことも現実にあることもわかってはいながらも、百合作品において女性同士のカップルの生涯を描く作品がより増えないかとも思っている。

 

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